備後一宮 吉備津神社

吉備津神社とは

ご祭神

主祭神

大吉備津彦命おおきびつひこのみこと

相殿神

大日本根子彦太瓊命おおやまとねこひこふとにのみこと

細比売命くわしひめのみこと

稚武吉備津彦命わかたけきびつひこのみこと

吉備津神社本殿内陣中央には、主祭神を大吉備津彦命、本殿向かって右側には相殿神に大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)と、細比売命を、左側には稚武吉備津彦命をお祀りしています。

大吉備津彦命は、またの名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)といい、第七代孝霊天皇の皇子で、四道将軍の一人で山陽道を平定され、吉備津開国之神として崇敬されています。

大日本根子彦太瓊命は、第七代孝霊天皇で、大吉備津彦命や稚武吉備津彦命の父君にあたります。

細比売命は、孝霊天皇のお后様にあたり、稚武吉備津彦命は、大吉備津彦命の弟君で、ともに吉備を治められました。また、吉備臣の祖とされています。

ご由緒

社伝では平安時代の初めの大同元年(806年)、備中吉備津神社より御分霊を賜り、備後国品治郡宮内(現在の福山市新市町宮内)の地に創建されたとされ、備後国の一宮として国中より尊崇を集めました。

『百錬抄』によると寛喜元年(1229年)、また『日本史列伝』では元弘2年(1332年)に火災にあい、本殿が焼失していますが、その後、永和2年(1376年)、小野宮左近将監が再建しました。

鎌倉時代の『一遍上人年譜略』『一遍聖絵伝』によれば、弘安10年(1287年)、時宗の開祖「一遍上人」が当社に参詣し、聖人供養の為として秦皇破陣楽という舞楽を鑑賞している様子が社殿配置とともに描かれています。

永和の再建時には、三殿を正宮一宇として、現在の社殿の元になっていると考えられています。

現在の社殿は、慶安元年(1648年)、初代福山藩主水野勝成公が造営したもので、修理を重ねながら現在に至っています。